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戦後70年のもうひとつの課題:民間資料の収集と保存をめぐって

(2015-07-30 掲載)

中山 大将

 樺太関係資料館 引揚者らが寄贈した資料などが展示されている。(北海道庁旧本庁舎2階 ――2015年7月筆者撮影)

 「戦後70年」という言葉が現れるときに、しばしば伴われるもののひとつは当事者の高齢化という問題であろう。いわく「戦争の記憶が薄らいでいく」と。各種学会、研究会に参加しても、ある危機感が共有されている。それは、当事者にインタビュー調査できる限界が迫っているという危機感である。インタビュー調査の限界が差し迫っていることはもちろんであるが、その陰であまり指摘されないもうひとつの「限界」に私自身は焦燥を感じている。それは、民間資料収集の時間的限界である。当事者が亡くなってしまえば、もはやインタビューはできない。しかし、同時に当事者が亡くなると同時に、その人物が保管していた文書資料も消失する可能性もきわめて大きいのである。個人に限らず、団体や企業が保管している文書も、時間の経過とともに失われていく可能性は大きい。
 私は学部時代以来10年近くにわたって、樺太(サハリン島南部)について旧住民の戦後史も含めて研究を行ってきた。その中で、民間資料が果たした役割は極めて大きかった。博士論文では、京都大学の旧樺太演習林資料は重要な資料のひとつであった。もちろん、個人所蔵ではなく、旧京都帝大という国家機関が保管していた文書ではあるが、現地の樺太庁が作成した資料とは異なる文脈、異なる視点で作成された資料は、樺太農村形成史研究のための一級の資料であった。その後に本格化させた旧樺太住民の戦後史研究においては、サハリン残留日本人(1949年の引揚げ終了後もサハリンに残留していた人々)の人数を確定するために各種名簿を収集し統合する作業を行ったが、その中でも民間団体が提供してくれた名簿は全体像を得るためには必要不可欠なものであった。
 もちろん、消失によって痛恨の思いをしたこともある。たとえば、樺太に進出していたある企業が数十年前に刊行した社史の中で参照していた内部資料を見るために、その企業の資料保管部署を訪れた際のことである。担当者はたいへん協力的で、保管庫の中を自由に入らせてくれたのであるが、どう探しても当該の資料が見つからない。資料の配架からして、あるべき場所は見当がついているのに、そこにも他のところにも見当たらない。それで担当者に尋ねてみたところ、最近まとめて古い資料を廃棄したので、その中に入っていたのだろうとのことであった。確かに、天井も低く床面積も小学校の教室ひとつかふたつ分しかない保管庫はもうスペースに余裕はなく、次々に資料も増えていく。すでに社史でも用いたし、現行の事業と関連のない樺太の資料を廃棄しても、企業の論理に照らせばそれは当然の判断であろう。私が探していたのは樺太の労働者に関する社内調査資料であり、稀有な資料であった。あと一年早くたどり着いていればと思わずにいられなかった。
 最良のケースは、その文書の価値がわかっている本人が生前にどこかの保管機関、それも収蔵公開能力をもった研究機関に寄贈するという場合である。たとえば、冷戦期にサハリンから日本へ「帰国」した朝鮮人の運動団体の資料は、その幹部たちが自分の手許にあった資料を別々の保管機関に寄贈しており閲覧ができる状況にある。最悪のケースは、もちろん、遺族が本人の死去と同時に処分してしまう場合である。しかし、これも一般人の感覚からすればごく普通のことであろう。たとえば、我々自身にしても、自分の親が遺した書類の中に職務関係や市民活動関係のひとまとまりの文書があったとして、それがどれだけの資料価値があるか判っていない場合の方が多いであろう。ましてや、「大学」の肩書を持っていても、赤の他人やなじみのない機関に「遺品」を丸ごと預けるのには抵抗もあるはずだ。
 また、遺族が重要性を認識して保管しながらも散逸しているケースもある。たとえば、あるサハリン朝鮮人の遺族を訪問した時のことである。彼の遺した数々の資料を遺族が快く見せてくれたのだが、遺族が我々に見せたいと思う資料が見つからないことがしばしばあった。遺族によれば「新聞社の人がみんな持って行っちゃった」とのことであった。マスコミ関係者だけを責める気は毛頭ない。研究者だって同様のことをしているケースはあるだろう。そして、当人たちにしてもきっと善意なのだ。「眠っていた資料を自分が世に出すのだ!」と。私も見せてもらった資料のうちに何としてもお借りしてコピーを取りたいものがあったが、さすがにその場では言い出せなかった。後日、「貴重な資料なので撮影しに再度うかがいたい」と手紙で申し入れたところ、その資料を郵送してくださった。その資料はビニールや封筒で幾重にも包装されており、遺族にとっては大切な遺品のひとつであることが私にも伝わって来た。
 私の経験の範囲では、マスコミ関係者の機動力には目を見張るものがある。その一方で、上記のような民間から預かった資料の未返却や被取材者にとっては不本意な記事など、フィールドではマスコミ関係者への不満を耳にすることも少なくない。ただ、自分が取材活動の中で収集した資料などを散逸させないようにするにはどうすればいいだろうかと考えているマスコミ関係者に出会ったこともあるし、その一方で、研究者に中にだって、フィールドを独占する権利があると勘違いしていたり、資料の体系的収集保管共有ということに無関心なため資料の散逸に知らずに加担している者だっているであろう。
 たとえ、散逸しなくても民間資料の収集保管共有には、多くの問題が付きまとう。第一には、その「発見者」である研究者にしてみれば、自分がその資料を使い尽くすまでは他の研究者とは共有したくはないという欲求である。民間資料の「発見」には、たいへんな労力と時間がかかる。何年も通って初めて見せてもらえることもある。それは信頼関係の構築のために時間が必要な場合もあれば、単にこちらがどんな資料を見たいのかが相手に伝わっていない場合もあり、時には片づけを手伝っているうちにひょっこり出てくることもある。その意味で言えば、研究成果が出るまでの民間資料の独占は「発見者」の特権として認められるべきかもしれないが、成果が出てしまえば次の研究テーマに目が移り、保管共有への情熱が失われる可能性もある。第二は、民間資料には往々にして個人的な情報も含まれており、共有についてはクリアすべき点が多いということである。本人さえ承諾してくれれば家族の承諾は不要か、遺族が承諾してくれれば生前の本人の承諾は不要か、そもそも家族・遺族の範囲はどこまでか、たとえ共有や公開について承諾があってもどこまで研究者側と認識を共有できているのか、などである。これは、インタビュー調査の録音データなどの取り扱いにも共通する問題である。
 問題があるからと言って、何もできないわけではない。問題があるならば、解決のために努力すればよい。「戦後70年」という言葉は、東アジアでしか響いていない言葉かもしれないが、地域研究やフィールド調査の中で蓄積された民間資料の保存公開は共通する課題であり、本センターが負う大きな役割であると筆者は考えている。

ラジオ放送90年:有事にも海外とつなぐ短波

(2015-06-01 掲載)

貴志 俊彦

 ――「ぶんかのミカタ」『毎日新聞』夕刊・関西版、2015年5月21日、第2面(夕刊ワイド)に掲載

 日本でラジオ放送が始まってから90年、海外放送が開始されてから80年がすぎる。戦争まっただなかで海外放送は「ラジオ・トウキョウ」と改称されたので、この名称に慣れ親しんでいる方もおられることだろう。これが国際放送と改称されたのは戦後のことである。現在、国際放送をおこなっているNHKワールドは、事件、災害などが発生した場合のライフラインや、日本の立場や主張の伝達、世界各国との相互理解を深める役割等をはたすことを目的としている。
 海外放送は、1935年6月に現在の茨城県古川市にあった那崎送信所から日本語と英語で発信を始められたが、終戦を経て、1945年9月に連合国軍の指令によって禁止されてしまった。その後、じつに6年半ほど海外向けの放送は許可されなかったが、サンフランシスコ講和条約発効の2ヵ月前、すなわち52年2月に日本放送協会はようやく国際放送「ラジオ日本」を開始できたのである。
 このできごとだけ聞くと、連合国軍の占領政策に憤慨されるかもしれない。しかし、占領軍は、海外放送の禁止とほぼ同時期に、戦時中に日本政府が禁止していた短波放送の受信を解禁したのである。戦前の日本では、36年以降短波も聴けるラジオ受信機の利用規制が徐々に強化されていき、43年3月にはそうした受信機を所有することさえ禁止されていた。終戦直前に日本人の家庭におかれていた600万台ほどのラジオは、ほぼ中波放送受信用となり、法律上短波を受信できないように規制されていたことになる。このことで多くの日本人は、海外からのニュースを受信することができなくなり、まさに情報の孤島のなかで「大本営発表」のみを信用させられる環境におかれてしまった。
 このように、戦後の連合国軍は、日本から海外向けの放送をおこなうことは認めなかったが、海外放送の受信には門戸を開いたのである。ただし、これでハッピーエンドではなかった。海外に残留/在留した日本人たちは、この6年半の間、日本からの放送を受信できず、あらたな情報の孤島に陥れられたからである。
 ただし、特異なケースもあった。45年9月から毎日6:40~17:30、18:20~22:30の2回、名崎送信所から北京、台湾の在外部隊/在留日本人向けの短波放送がおこなわれ、46年3月からは大阪の河内送信所からも昼と夜に1回ずつ短波放送がおこなわれたのである。同年4月以降、この種の放送は在外日本人向けと改称されながら、河内送信所から、台北・上海向けと、天津・北平(現・北京)・長春方面向けの2方向の短波放送として継続された。とはいえ、こうした東アジア向けの例外的な放送は、その他の地域の在外日本人たちを蚊帳の外におしやっていたことになる。「排除された」彼らは、52年2月に開始された「ラジオ日本」に至福の声をあげたことだろう。
 最後に、消えつつある短波ラジオ受信機に向けて声援のひとこと。2012年11月、外務省は在外日本人に向かって、電話もインターネットも通じなくなったとき、「短波ラジオの重要性を見直してください」と呼びかけている。日本政府は戦争の悲劇・悪夢を回避して70年になるが、私たちはいつ何時、紛争や災害に巻き込まれるかわからない時代を迎えつつある。そのときの生存手段のツールとして、短波ラジオはいまも重要な役割を担っていることを忘れないでいただければと思う。

将来への資料作成:知識生産のグローバルなプロセスについて

(2014-05-13 掲載)

アンドレア・ユリ・フロレス・ウルシマ

コロンブスが計画したアジアへのルートとアメリカ海域への実際到達。ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア島、カサ・デ・コロン文化センター、  ――12月2009年

 今年2014年は、第一次世界大戦(1914−1918)という 史上初の世界的な戦争の開戦から、100周年にあたる。多くの国々で、2014年から2018年までに記念行事の開催が予定され、その準備が始まっている。その中で、フランス国立・図書館と文書館は、共同活動として2013年11月から 戦争の記憶に関する個人寄付を公募した。

 第一次世界大戦の終戦後、世界平和の再建を表す最初の万国博覧会は、1922-1923年にブラジル連邦共和国の独立100周年を記念して催された。この大規模なイベントは、特に開催都市であったリオ・デ・ジャネイロ市の中央に位置されたカステロ丘を平らにし、景観を抜本的に変えることになった。1920年から1922年まで、同市の地方自治体は丘から 歴史的に重要な建物としてあったサンセバスチアン防塞や 住宅、行政、宗教施設など4百の建物を使っていた5千人の住民を移住させた。18万4千平方メートルの面積が平にされると同時に、500万立方メートルが掘削された。 掘り起こされた土は、 海岸のそばで埋立地を作るのに使われ、今日の サントスドゥモン空港にそのほとんどが使われた。 国の進歩的な特性を国際的に示すために、 エピタシオ・ペソア大統領の共和国政府は多大な努力を払って首都を変貌させた。 日本は、この博覧会に参加した14カ国の中で、地理的にヨーロッパとアメリカ大陸の外に位置する唯一の国だった。

 日本の参加は、1895年の日伯修好通商航海条約以来の、二カ国の外交関係の結果であろう。 最初の日本人移民が受け入れられたのは1908年だが、その準備のため、1897年以来、日本政府の代表者はブラジル人の農業者との予備交渉を始めた。 この時期、1897年から1899年までに横浜にあったブラジルの副領事は、ブラジル文学の重要な作家の1人であるアルイジオ・デ・アゼヴェード(1857-1913)であった。

 アゼヴェードは、 ブラジル文学アカデミー(ABL)の創設者の一人であった。このアカデミーは、上記の博覧会のためにフランス政府が建設した旧フランスパビリオンを寄付され、この建物の中に、印象的な収集を有する公共図書館を設立した。 エミール・ゾラとエサ・デ・ケイロスに影響され、アゼヴェードはブラジルの自然主義文学の最も重要な人物として知られる。彼の文学作品は、中・高の公教育で教えられるブラジルの「古典的」文学のリストに現れている。 日本での滞在後に、彼は 「日本(O Japão)」と題する原稿と「 日本人と米国人の女( Japonesas e Norte-Americanas))と題するエッセイを執筆した。後者は部分的には1904年に『ガルニエ・ブラジル年鑑“Garnier Brazilian Yearbook”』で刊行されたが、完全版は1980年になってようやく発行された。他方で「日本」の原稿は、長い間ABLの文書館の中で、人目に触れない状態で残ってきた。 文学史論研究者のルイス・ダンタス教授は,1980年にフランスの エクサンプロヴァンスで博士論文を発表したが、その準備中に、 アゼヴェードの原稿を発見し、分析したのである。 結果としてダンタスが、国際交流基金の助成金によって、1984年にアゼヴェード原稿の論評版を発行した。 ちなみにこの時公表されたものは、かつてブラジル文明・文学科のフランス人教授であった、ジャン-イヴ・メーリアンによって集められた参考資料を含んでいた。

ここでは、アゼヴェードの書いた文章の内容を分析するのではなく、 むしろグローバルな資料作成の重要性と知識生産の複雑な論理について議論したい。 ブラジルではアゼヴェードの文学作品に対して卓越した評価が与えられているが、上記の背景を見るといくつかの興味深い疑問が現れる。 この原稿はなぜ彼が日本に到着してからおよそ90年後になって発行されたのだろうか?フランスで大学と大学院を修了したダンタス は、なぜそれに興味をもつようになったか? 参考資料の一部がなぜフランス人の教授によって集められたか? この原稿はなぜ国際交流基金の助成金で発行されたか?

これらの質問に適切に答えるためには、エッセイではなく長い論文を書く必要があるだろう。それはフランス、ブラジル、日本で行われてきた知識生産の多様性を思考する論文になる。例えば、ブラジルのサンパウロ州での日本人移住のルートについて、最初の公式かつ系統的な調査が行われたのは2008年になってからだった。 この調査は ブラジル国立文化財研究所によって新たに作成された、「国家の移住旅程」というプロジェクトの一部として行われた。 このプロジェクトは、ブラジルの文化と歴史の構築に対する移民の影響と貢献について国家が認知したことを表すものである。この系統的な調査が行われたのは、ブラジルへの日本人移住百周年(1908年-2008年)を記念した年であった。

異なった視点から見ると、ダンタス教授が「日本」を見出した80年代には、日本は 既に強い経済と高度な技術を持つ国として知られていた。70年代から、日本はかつてないほど国際的に注目されてきた。 当時、アジアで最初の万国博覧会として、1970年に大阪万博が主催された。この万博のために作られた日本館の中で、明治革命百周年(1868年-1968年)を記念した展覧会が行われた。 この文脈で、1972年に設立された国際交流基金を指摘することに意味がある。事実として、1970年代以降、日本は知識生産のグローバルな過程への影響を増加させたのである。

上記の2つの例は、異なった地域における知識生産がどのように時間と文脈に応じて変化するかを示している。これらの変化に関わらず、 情報を集め、整理し、保存する動作は、知識生産の基本的原理である。 したがって、資料作成の重要性は、 次世代のニーズを予想し、答えることである。アゼヴェードの原稿が90年間保管されていなかったなら、現在の世代は19世紀末に日本とブラジルが外交関係を結んだばかりの頃のブラジル人の日本に対する印象について、より少ない情報しか持たなかっただろう。 同様に、1954年に『希望の原理』を書いた エルンスト・ブロッホは、 過去が次世代によって抽出されるべきユートピアの余分を含んでいると断言する。 様々な資料が残らなければ、私たちのいくつかの現在のユートピアはさらに達成不能であるように見えたことだろう。 しかし、過去の小さな無視された事実を見返すと、私たちは、結局、 現在のユートピアの考えのいくつかの起源は以前に存在していたことを知ることができる。

 世界の離れた地域の間で、知的交流は将来のために補強されることを望む。 ブラジルと日本の間の外交関係は長い時間をさかのぼるが、 知的交流はまだ不十分である。他の地域とブラジルとの関係を考えると、ブラジルにおける 東南アジア等に対する知的関心や交流はさらに欠けている。 実際、私が卒業した建築と都市計画学部の中で 、 「世界の建築史と都市計画史」と題する授業等で、アジアのどんな様相についても触れられることはなかった。また日本でもラテンアメリカはまだ発見されていない部分が多い。 地球の 異なった多数の地域で、相互の発見と資料作成によって、 近代以降のより新しい理解に至るだろう。個人寄付によって守られた第一次世界大戦 の記憶や、1922年の万博の際にリオデジャネイロでなくなった400の建物や万博時に建設され、その後も残った建物、そしてアゼヴェードの原稿は、資料作成と知識生産との複雑なプロセスを表すと言えるだろう。

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